沿革

精義塾は明治26(1893)年、在京の学生、岡三蔵(後に鉄道院技師、蔵前工業会館取締役会長)、池田経三郎(後に近江銀行頭取)、中山巳代蔵(後に栃木県知事)、水川復太(後に日本郵船(株)重役)の四氏が、蕩々たる学徒の堕落を嘆き、郷党の後輩のための独創的な学生の自治寮として、本郷の元町に下宿屋の一室を借り、自室生活からスタートしました。

 

当時枢密顧問官、日本赤十字社長など国家枢要な地位に就かれ、人格識見とも傑出された岡山県出身の花房義質子爵が、これら4人の学生の志に共感され、爾来30年にわたり、終生物心両面から精義塾の指導育成に当たって下さいました。ちなみに精義塾という名は「易経」に由来し、花房先生が撰んで下さったものであります。また先生は、岡山県出身の教養の高い、人格の優れた諸先輩を塾の評議員をして、塾員にその薫陶を受ける機会を与えられました。そうした環境の中で塾員は、自主自立、他に類例を見ないような学生の切磋琢磨の「塾」を育て上げてきました。尚、大正9年、花房先生がご逝去なされ、以後監督制を廃止し、法人組織として成立しました。

 

当初は塾舎を持たず、収容人員の増加につれて数回借家を変えておりましたが、明治36(1903)年に池田候爵家が、小石川区竹早町で所有された土地を無償で貸与を受け、そこで初めて塾舎を持ちました。その塾舎も大正12(1923)年に関東大震災で損傷を受け、同15年に改築し、後、塾の出資により隣地を買い入れ、敷地を拡張しました。その竹早町塾舎も、昭和20(1945)年の東京大空襲で消失し、戦後跡地が東京区立第一中学校用地に収容され、その代替地として現在の小日向の敷地が割り当てられました。時の東京都知事、安井誠一郎氏を始め、岡山県出身の多くの有力者の方々によって組織された維持会から多大なご援助を受け、昭和29(1954)年、木造2階建ての塾舎が新築されました。

 

その後も増築するなどして推移しましたが、毎年多くの有為な人材を輩出してきた木造塾舎も、昭和50年代に入ると老朽化が進み、勉学に適したものとは言い難くなり、改築計画が立案されました。そして関係者の熱意、努力が認められ、岡山県や岡山市をはじめとする各界の浄財と住宅金融公庫の融資とにより、昭和54(1979)年、鉄筋コンクリート3階建ての現塾舎が完成しました。

 

なお、2015年に、財団法人から公益財団法人に移行しており、塾舎の外壁や、浴室、洗面所等については、2022年3月に全面改修を実施しております。